創業物語 プロフィール
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  第06話    「中島先生」 2000/09/03  
中学2年までは、担任の先生に今ひとつ恵まれなかった僕ですが、中学3年の担任の先生は、とても素晴らしい方で、一生を通じて尊敬できる先生でした。

その先生の名は、「中島先生」。
当時40歳ちょっと。考えてみると、今の僕とさほど大差ない年齢です。
でも、今の僕なんか、まったく及びもつかない、とってもとっても、どでかい先生でした。

人と人とを決して比較しない、差別しない、個をものすごく大事にしてくれて良いところを見つけだし伸ばそうとしてくれる先生で、おかげで学力的に自信を失いかけていた僕には、大きな救いでありました。

優しさと厳しさを兼ね備えた先生で、顔が腫れ上がるほどのビンタを何回も経験していますが、全くと言っていいほど、恨むことなんてありませんでしたね。

この先生のおかげで、僕のクラスの連中は、頭のいい奴も悪い奴も、顔の美醜や、運動の出来不出来、家庭の貧富なんかもまったく関係なく、みんな明るく楽しい中学生最後の年を過ごせたことと思います。

#僕が後年、大学でクラブの部長を務めたり、会社で組織のリーダーを務めた時、あるいは経営者となった今、この中3の時の先生を見習うことが実は多 いんです。(さすがにビンタはしませんが!)

余談ですが、僕と同じこのクラスには、渡辺という野球部(全国大会で準優勝するほど強いチームだった)のキャプテンをやっていた奴がいたんですが、彼とは、(我が柔道部は、県大会で初戦敗退したヒガミもあって)最初喧嘩ばかりしていたのですが、この先生のおかげで部活卒業後は、大親友となり、その後も腐れ縁が続いており、今でもたまに会って酒を飲んだりしています。
(ちなみに彼は今リクルートで旅行情報誌に携わっています。)

こんな素晴らしき中3も終わりに近づき、高校受験の時期となる訳です。

天才と比べると凡才だった僕でも、相対的に見ればまーまー優等生な僕は、それほど苦労することもなく大分市内の県下有数の進学校に見事合格。

そして、仲の良かったクラス仲間と離ればなれになる日が来ました。

卒業式の後、クラスにもどった僕たちに、先生は多くを語らず、おもむろに背広のポケットから小さいハーモニカを取り出し、静かに演奏をはじめたのでした。

その曲は、「ふるさと」
(うーさーぎー、追ーいし、かーのーやーまー…)

我らが湯布院中学校は、山村の中学校のため、都会(というか大分市内)の高校に入る僕は、高校入学後は湯布院を離れ下宿することになっており、本当にこの日は、多くの仲間たちと(先生も含め)離ればなれになる日だったんですね。

そんなこともあって、先生のハーモニカを聞いて号泣状態。号泣しているのはもちろん僕だけではなく、ほとんどのクラスメートが泣いていましたね。
「3年B組金八先生」さながらの情景だったですね。
(きっとドラマよりずっとずっと感動的)

一生忘れることの出来ない、感動の卒業式の日でした。

そして、それから数週間後の1976年4月。

大分県立大分舞鶴高校に晴れて入学する日がやってきました。

また同時に、この日から、はじめての親元を離れてのひとり暮らし。

「酒と泪と男と女」の下宿生活がスタートするのでありました。

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