1983年1月。
正月休みも終わり、田舎から下宿に戻った僕のもとに、一本の電話。
「リクルート神田営業所の若杉ですが…」
(筆者注:若杉さんとは、ニコニコしながら僕を面接してくださった所長さん
です。当時30数歳くらい)
「あっ、ど・どうも…。その節はありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして。さてところで、先日の試験の結果ですが…」
そう、試験とは、抜き打ちで受験させられたSPIのことであります。
その結果如何では、アルバイトといえども採用されない、ということだったの
で、僕は半ば諦めかけていました。
ところが若杉さんから発せられたつぎの言葉は…
「ぜひね、すぐにでも働いてもらいたいのですが、いつから来られますか?」
おー、やったー! 日給1万円の仕事にありつけたぜ!
その後、どんなにつらい苦難が押し寄せるかも知らずに…。
あー可哀想な釘崎青年の運命の1ページは、こうして幕を開けたのでした。
1983年1月下旬。
大学の後期試験を無事済ませ、リクルート神田営業所に初出社。
職種は営業マンであるため、スーツ、ネクタイ着用が義務づけられており、僕
は安売りのスーツに身を包み緊張しながら、事務所に入っていったのです。
そこには既に僕の机と椅子が用意されており、庶務のお姉さんからは営業マン
用のダイアリー、文房具一式を手渡され、そして何よりビックリしたのは、所
長の若杉さんから、
「おい、釘崎(すでに呼び捨てモード)、今日からよろしく頼むぞ。これが、
おまえの名刺だ。」
と、釘崎清秀の名前がバッチリ印刷された、カモメのロゴマーク入りの名刺を
もらった時でした。
僕 : 「へー、アルバイトでも名刺を持ち歩くんですねー」
所長 : 「リクルートじゃね、アルバイトとは呼ばないんだ。
A職といって、普通の社員営業マンとまったく一緒の仕事をしてもらう
んだ。もちろん、仕事の時には学生であることは忘れてもらうし、客先
では、キミがまだ大学生だなんて絶対明かさないこと。いいね」
何やら大変なところに来てしまったようだ…。と思っても、もう後の祭り。
ともかくも、まずは馴染むまで様子見だな。
ボッと自分の席に座っていた僕に、隣の営業マンが気を利かして、自分のリス
トを半分渡してくれ、
「俺、これからこのリストのお客さんにアポイントの電話を入れるから、真似
してかけてみてよ」
といわれ、しばらくは、その営業マンの電話に聞き入っていました。
(「すごい、こんな電話、俺できないよ…」)
次の日から、いよいよ本格的にアポ取りの電話の開始です。
「えー、リクルートセンターのクギサキと申しますが、御社の新卒採用のご提
案を、うんぬんかんぬん…」
「リクルートセンター!?ふざけんな!いったい1日に何回電話を入れれば気
が済むんだ!」
こんなふうに怒られるのが大半でした。
なかには、
「なに!ヤクルトセンター!?ヤクルトは間に合ってるよ!!!」
と訳のわからん答えが返ってくることもあり、前途多難なアルバイトの始まり
なのでありました…。
勤務開始から1週間ほど経ったある日、茫洋とした僕と同じくらいの年齢の若
者が僕の隣の席にやってきました。
「俺と同じ学生A職やろか…」
こう思って本人に聞いてみると、
「おー、そうだよ。俺も学生A職だよ。内定者A職で、4月からは正式に社員
になるけどな。」
この男、名前を村井満といいます。
パフ創業の大きなきっかけを作った男との、運命的な出会いの瞬間でした。
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