「ほんとうのさいわい」を考える~「銀河鉄道の夜」を読んで~
作成日:2024.5.27
阿久根です。もう梅雨のような気候になってまいりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
最近、改めて大好きな宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読み直しました。
短編であり、執筆中に作者が逝去したこともあり、様々な手が加わって今の形式となった作品ですが、私がとても思い入れのあり大好きな作品です。
主人公は、少年ジョバンニとその親友カムパネルラ。
童話ではありますが、「幸せとは何か?」という普遍的な問いを読者に投げかけているような気がします。
私が感じるこの物語の主軸は、周囲の人が提示する「さいわい」を鵜呑みにせず、自分自身が感じる「さいわい」について敏感に感じ取る大切さ、という部分です。
同じ銀河鉄道に乗り合わせた人との会話の中で、「天上に行けば幸せになれる」と信じている人たちに対し、ジョバンニはこう言います。
“「僕たちといっしょに乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。―天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」”
「この場所に行けばしあわせ」という曖昧な形にすがる群衆に対し、主人公は真正面からノーを突きつけます。群衆の心理は現実世界を生きる私たちにも当てはまることで、「〇歳であれば、入社〇年目であればこのくらいのことが出来なければいけないはずなのに」と理想の自分と戦ったり、誰かと同じでなければ安心できなくなってしまったり、誰かが何気なく言った「●●じゃないとダメだよ」という言葉に傷ついたり。そんな時に、そこだけにしがみついてしまうと「違う視点から物事を見ればいいことが待っている」と信じられなくなってしまう時があります。
主人公たちを置いて、他の乗客たちは「天上」へと降り立ちます。電車に残ったのはジョバンニとカムパネルラ二人きり。静かな車内で、ジョバンニとカムパネルラはこんなやりとりを交わします。
“「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなのさいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。”
自分たちにとっての「幸せ」とは何かが”分からない”ということに気づく二人。
それでも、「しっかりやろう」と思いを新たに孤独な旅路を進み続けようと決意するのです。
この一節を読んで、無理に今・すぐに分かろうとするのではなく、自分たちの幸せが何かを確かめ続けること・考え続けることを、怠らずに続けていこうというメッセージにも感じ取ることが出来ました。わたしは肩の力が抜けて、ほっとしたのか涙が出てきました。
孤独だけど「さいわい」にあふれた二人の旅路を一緒にたどり、ほんの少しの、でもあたたかな勇気をもらいました。何が自分にとっての「さいわい」か、考えて悩んで味わうことが人生なのかもしれない、と思えたからです。
最後に、私が一番好きなジョバンニの言葉をここに残します。
“「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」”
(出典:青空文庫 宮沢賢治 銀河鉄道の夜 (aozora.gr.jp))