2000年7月28日。
広く株主を募集した「公募増資」の申込み締切日を迎えた。
この「公募増資」の成否で、パフの今後の事業展開が決まる。
「就職サイトの運営」という、お金のかかる事業を、会社組織として展開し
ていけるかどうか。
今回の「公募増資」で、資金調達が成功するか否かにかかっていたのだ。
場合によっては、せっかく内定を出した「パフ新卒第一期生」4名の採用も
危なくなってくる。
ひとつの賭けであった。
幹事証券会社であるディー・ブレイン証券の担当者、Mさんから連絡が入っ
た。
●Mさん : 「釘崎さん。今日で、新株の申込みを締め切ったんですが…」
▼釘 : 「うん。で、結果はどうだった?全株引き受けてはついた?」
●Mさん : 「結論から言うと、申込み倍率4.5倍でした」
▼釘 : 「???」
●Mさん : 「つまり、270株の申込み株式数に対して、
約4.5倍の1213株の申込みがありました。すごいですね。
パフの株は、抽選で当たった人しか買えない状況ですよ♪」
▼釘 : 「そ、そうですかぁ。あぁ良かった…」
ホーーーーーーっと、深い深い、安堵のため息が出てきた。
西暦2000年になってから、このままではいけない!と思い、
いろんな資金調達の試みを行ってきた。
なかには胡散臭い“資金調達屋”に騙されかけたこともあった。
しかし、結果的には、市場から資金を調達するという「正攻法」が
功を奏することとなった。
一方で、「資金調達」がうまくいく前提で、事務所の移転・拡張と、
新卒者の採用を進めてきた。
事務所は当時のパフとしては、立派過ぎるほどの広いところを借りることが
出来た(今は狭くなった現事務所だが、当時は、だだっぴろかった)。
採用も、「よくぞ決めてくれた」という人材が4名採用できた。
資金調達できた金額は総額で約4000万円。
この4000万円を運転資金にして、1年後を目処にして、
単年度で黒字を目指せる会社・事業内容に転換しなければならない。
そして、数年後には、株式公開や配当ができるくらいの収益を生み出せる
会社にしなければならない。
今回の公募増資で、パフの株主総数は約180名になっていた。
未公開企業としては異例な数であろう。
もはや、パフは“釘崎清秀”の私企業ではない。
多くの株主に支えられた公企業としての責任を果たさなければならないのだ。
気持ちを新たにして、会社の舵取りを行う決意をした日だった。
そして、3日後の8月1日。新生パフの第1日目だ。
この日から、新卒採用第1期生である、ヨシカワアユ、フルカワアキコ、
ササキタカノリ、ササキアサヒの4名が出社することになっていた。
新人4名+経理のマルヤマ+ボク。この総勢6名が、
新生パフを立ち上げていくスタッフということになる。
といっても、新人4名は、まだ大学4年生(タカノリは5年生だったが)。
戦力とするには、訓練が必要だ。
8月1日~2日は、新パフ人としての猛特訓をすべく日として、
割り当てていた。
猛特訓の先生を依頼したのは、この物語に久々登場の「寺さん」であった。
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