ディーブレイン証券の初代社長であるMさんと若き社員のMさん。二人のMさんは、パフの資金調達のために尽力してくれた。
パフが公募増資をするためには、証券会社が一般投資家に対してパフを紹介しても差し支えない会社かどうか、審査をしてもらわなければならなかった。
審査員は、アナリストとかベンチャーキャピタリストと呼ばれる金融の専門家たち。ビジネスモデルの優劣や、市場の成長性や、経営者の人間性などを総合的に判断するという。
この審査に通らないと、パフは資金調達のための道が閉ざされることになる。
審査会当日、僕は必死に(6、7人の)審査員達にプレゼンテーションを行った。しかしプレゼンテーションのあと、いかにも賢そうな審査員から、パフのビジネスに対して散々な批判を喰らった。
「こんなのでビジネスが成り立つわけがない。せいぜい個人商売がいいところでしょう」
「こんちくしょう、このサラリーマン野郎め!」と思ったが、さすがに喧嘩するわけにもいかず、僕は言われるがままだった。
後日、審査の結果が出た。予想通り「NG」。パフの公募増資はまかりならぬ、ということになった。
これでパフの生命は絶たれたも同然だった。事業のすべてを見直さなければならなくなった。暗澹たる思いだった。
しかし、ここで動いてくれたのがM社長だった。NGを出した審査員に対して考え直すように働きかけてくれたのだった。
その甲斐あって、後日再審査をしてもらえるようになった。そして、どうにかこうにか、パフの公募増資は認められたのである。
公募増資による資金調達に向けた活動が始まった。公募増資が認められたといっても、実際に応じてくれる投資家がいないことには資金調達は成功しない。
ここで懸命に動いてくれたのが、ディーブレイン証券の若き社員Mさんだった。Mさんは、当時25歳。大学卒業後、大手証券会社系列の投資顧問会社で働いていたのだが、こっちのほうが面白い仕事が出来そうだ、ということで数ヶ月前に転職してきたという。
Mさんは、パフに出資してくれそうな投資家を丹念に回ってくれた。パフの営業マンではないかと思うくらいに、パフの事業内容をいたるところで熱く説明してくれた。
この二人のMさんのおかげで、公募増資による資金調達は成功した。集まったお金は十分な金額ではなかったのだが、それでも、最低限の広告宣伝費を賄うことはできた。この資金がなければ今のパフはありえなかった。
しかし翌年、社長のMさんは、ディーブレイン証券を去ることになる。詳しいことは分からないが、オーナーとの経営方針の違いから辞任することになったらしい。
さらにそれから3年後、若き社員のMさんも辞めることになる。アメリカの大学院でMBAを取得するためだ。
社長だったMさんは現在、某大手上場企業のCFO(最高財務責任者)として辣腕を振るっているらしい。若き社員だったMさんは、現在ニューヨークに本社がある金融会社で活躍しているらしい。
風前の灯だったパフに「資金」という血を注ぎ込んでくれたふたりのMさん。パフ設立1年目の素晴らしき出会いだった。
(M社長が55番目、社員のMさんが56番目ということにしておきましょう)
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