創業物語 プロフィール
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  第11話    「宝塚月組のお姉ちゃんたちと…」 2000/10/08  
大学1、2年の頃は、学校と人形劇団とはとバスで、寝ている時以外は24時 間フル活動の状況でした。

・日中は、比較的まじめに授業に出席。(休講時はパチンコ、麻雀、ボウリング)
・昼休み、学校本館屋上で発声練習。(♪あえいうえおあおあいうえお…)
・午後5:30~8:00、人形劇団の公演稽古などの活動。
・夜9:00~ 、 はとバスへ。夜のコースの添乗・車掌業務…。
・深夜2:00頃帰宅、大学の仲間の下宿で酒盛り。

というのが平均的な僕の毎日でした。


土・日は、はとバスの団体旅行(外人1日貸し切りツアーが多い)の添乗で、 鎌倉・箱根・富士山のどこかに、毎週必ず行っていました。


そうそう、はとバスの仕事で、一番記憶に残っているのが、宝塚歌劇団の送迎 の仕事です。


僕が大学2年生の秋、新宿コマ劇場で宝塚(確か月組)の公演が2週間連続で 行われていました。
女優さんたちは、恵比寿にある宝塚の寮に宿泊しており、はとバスは、終演後 に、コマ劇場から恵比寿の寮まで、女優さんたちを送り届ける仕事を請け負っ ていたのです。


バスの運転手さんは、毎日入れ替わるのですが、僕は車掌として、ほぼ毎日女
優さんたちを、コマ劇場の通用門まで迎えに行き、バスまで誘導し、「発車オ
ーライ」を繰り返していました。

僕のようなチンピラ学生にとって、宝塚の女優なんて高嶺の花もいいところ。
「挨拶以外は、自分から話しかけるなよ!」と会社の人からも言われており、
僕が彼女らに発する言葉と言えば「お疲れさまでした!」の一言だけ。

一週間ほど車掌業務を続け、女優さんたちとも目でニコっ!と挨拶できるよう
になったある日の車中での出来事。

「お兄ちゃん!ねぇ、マイクとって!」

リーダー格の女優(名前は確か「榛名ゆり」だったかなー)から声をかけられ、

「は、はい、ただいま!」

と、その大物女優にマイクを渡そうとしたところ…

「違う違う、マイクはお兄ちゃんが持つんよ、 今からウチらがいろいろイン
 タビューするから、お兄ちゃんがそれにマイクで答えるんや。」

「へ?、は、はい」

新宿から恵比寿までの約30分の間、僕は俄アイドルみたいな立場で、女優さ
んたちに、いろいろ弄られており、ついには当時僕が作っていた人形劇の主題
歌まで披露してしまい、車中はもう「バカウケ」状態でした。


そして、その翌日から、すっかり女優さんたちと打ち解けてしまい、

「ひょっとしたら、『この後どう?』なーんて誘惑されるんやろか…」
「あー、そしたら、俺、ど・どうしよう…。最近風呂入ってないし…」

とドキドキしながら、劇場まで迎えに行ってましたが、どうやらその心配は杞
憂に終わったようで、いつの間にか公演最終日を迎えてしまいました。

最終公演を終え、恵比寿に向かう送りの車中、リーダー格の大物女優の方が、
おもむろに立ち上がり、

「えー、はとバスのお兄ちゃん。今まで2週間、わがままな私たちにお付き合
 いいただき、1日も休むことなく恵比寿まで送ってくれてありがとう…」

と、お別れの言葉を喋り始めたのです。
そして、大きな花束と、靴下の詰め合わせを贈呈され、最後にみなさん揃って
の大拍手。

いやー、これは感動ものでした。

バスの送迎の車掌の仕事で、こんなに感謝されるだなんて…。

「人と接する仕事、人に感謝される仕事って、いいなー…」と心から感じ
られた出来事でしたね。


この「はとバス」のアルバイトは、大学3年の秋まで、ずっと続けたのですが
いろんな人とのつきあい方(我が儘なお客やら気むずかしい運転手やらも含め
て)を学んだ気がします。

そして、1982年12月(僕が大学3年生の時です)。

運命的な会社との出会いが訪れたのでした。
その会社の名は、「株式会社日本リクルートセンター」。

なにやら、怪しい名前の会社ですが、この会社で人事担当者をしていた兄の口
利きで、「情報誌営業アルバイト」の試験を受けることになったのでした。

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