僕が通っていた予備校は、早稲田ゼミナールというところ。早稲田大学に入り
たいと思っている学生にとって、「早稲田なにがし」という名前の予備校には 、
そそられるものがある。所は高田馬場。この界隈には「早稲田なにがし」とい
う名前の予備校が、いくつかあった。
かくいう僕も「早稲田なにがし」というネーミングに惹かれて、この予備校を
選んだ。なんて単純なやつなんだろう…と今でこそ思うが、浪人生の心理とは、
案外そんなものなのであろう。
九州から単身で上京してきていた僕には、友人と呼べる存在は誰一人としてい
なかった。
予備校には毎日まじめに通ってはいるものの、打ち解けて話をできるものなど
誰もいなかった。というより、こちらから話し掛けることをしなかったのだ。
なぜか……。
周りの連中から発せられる「東京弁」が気に入らなかったのだ。
「あのサー、おれサー、いいと思うわけー」「えー、いいジャン、いいジャン」
こういう言葉を聞くたびに、なーにが、「サー」だ。なーにが、「ジャン」だ。
おまえら、それでも男か!!と、ひとりでムカムカしていた。こんな感じだか
ら、友だちなど出来るはずがない。
ある日。午前中の授業が終わった時だった。懐かしい言葉が聞こえてきた。
「あん先生の授業、ホント分かりにきぃのぉう。もうちょっと何とかシチクレ
ンかのぉう……」
まさしく大分弁だ。僕は振り向き、この大分弁を発している男に、思わず声を
掛けた。
「あのー、俺は大分舞鶴高校出身のクギサキちゅうんやけど、お前は?」
「え?お前、舞鶴!?俺は大分雄城台(おぎのだい)のマツオカじゃ」
大分雄城台というのは、大分舞鶴のライバル校で、大分市内にあった3つの進
学校のうちのひとつだった。
僕は、異国でやっと言葉が通じる日本人を見つけたような気持になり、それか
らいろんなことをこのマツオカに喋りまくった。
マツオカも似たような気持だったのだろう。以来、二人は何をするにも一緒だ
った。
マツオカは食い放題の店をみつけてくる天才だった。朝飯抜きで、マツオカが
見つけた店で昼飯を存分に詰め込む。これでもかっ!というくらいに詰め込む。
そして晩飯は食べない。食べずに翌日の昼の食べ放題まで我慢する……。
お金の無かった僕らは、こういう工夫をしながら暮らしていた。
・・・翌年の春。
マツオカは第一希望の早稲田には運悪く落ち、第二希望の明治に行くことにな
る。僕も運悪く(いや実力が無く?)早稲田に落ち、マツオカと同じ明治に合
格する。学科も経済で、マツオカと同じだった。
大学もマツオカと同じか?と思ったのだが、僕は結局、経済的な理由もあり、
明治ではなく明治学院に進学することになった。名前は似ているが全然別の大
学だ。
こうしてマツオカとは1年間だけの付き合いで、以降、別々の大学生生活を送
ることになった。
大学入学後、2~3回は会ったが、それ以来消息不明となってしまった。当時
はメールはおろか電話すらなく、連絡を取るのが極めて困難だったのだ。
浪人時代の苦楽を共にしたマツオカ。今ごろ、どこでどうしているのだろうか。
このコラムを書いていて、無性に会いたくなってしまった。
14番目の素晴らしき出会い。浪人時代の無二の親友、マツオカのお話でした。
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