30年ぶりの同窓会は1月2日の夕方から開かれることになっていた。
僕は1月1日のお昼前の飛行機に乗った。大分空港に着いたのは、午後1時半。
空港からは、湯布院行きのバスが飛行機の時間に合わせて運行されている。昔
は別府を経由してバスを乗り継いだものだが、直行の高速バスができて、とて
も便利になった。
バスは高速道路を快適に飛ばす。約1時間後、懐かしい山並みが眼前に広がっ
てきた。そして、緩やかなカーブをまがりきったとき、湯布院のシンボル由布
岳が目の前に現れた。「お帰り~」と由布岳が僕に語りかけてくれているよう
だった。
僕は小学校1年生から中学校3年生までの約9年間、この小さな町、湯布院で
少年時代の毎日を過ごした。辛いときも楽しいときも、いつもこの由布岳に見
守られながら暮らしていた。
湯布院に行ったことのある人ならわかると思うが、由布岳は、湯布院の街すべ
てを優しく包み込むようにそびえ立っている。その勇壮で優美な姿は、湯布院
で暮らすすべての人々の共通の宝物だ。何十年経っても変わることのない雄姿。
故郷を遠く離れていても、湯布院で育った僕たちの脳裏には、いつまでもはっ
きりと焼きついている。
午後3時まえ。バスは由布院駅(湯布院駅ではないんです)に着いた。駅前か
ら歩いてすぐのところに、僕が6年間通った由布院小学校がある。僕は小学校
の校門まで行き、そこから歩いて家に帰ることにした。いま母親が住んでいる
家ではない。39年前、一家4人で暮らしていたオンボロ長屋があった付近ま
で、小学生の頃と同じように歩いてみようと思ったのだ。
駅前のほとんどの建物は建て替えられていたのだが、それでも小道に入ると昔
の面影をそのまま残した飲食店や工務店や民家があった。ただ大きく違ったの
が、小学生の頃はずいぶん遠く感じた家までの道のりが、あっという間だった
こと。大きく広く見えた道路が、実はとても小さな道だったこと。120セン
チの身長から見えていた風景は、もう記憶の中にしかなかった。
昔住んでいた家の付近まできた。当然だがオンボロ長屋はもうそこにはなかっ
た。町中の皆が貧しかった当時ですら、恥ずかしくなるような古くて小さな家。
狭い炊事場以外には、四畳半と六畳がつながった部屋ひとつしかない小さな家。
一家四人が、ご飯を食べるのも、テレビを見るのも、寝るのも、全部同じ部屋。
友だちも呼ぶことのできないオンボロ長屋だったが、それでも家族の思い出が
ぎっしり詰まった家がもう残ってないというのは寂しいものだ。
昔のできごとを一つひとつ思い出しながら、母親がいま住んでいる(兄貴が社
会人になって数年後に建ててくれた)家に足を向けた。家に着いたのは、山の
端に夕日が沈もうとしているときだった。
耳が遠くなった母は、息子が家の中に入ってきたのにも気がつかず、せっせと
晩御飯の仕度をしていた。オンボロ長屋で暮らしていたときの母親はあんなに
大きかったのに、目の前の母親は息子の肩にも届かないくらいに小さくなって
いた。
「ただいま!」。母親の耳元まで近づき、大声で帰省のあいさつをした。
「あら、たまがった。おかえり。もうご飯の炊くるけん、はよ風呂に入んなさ
い。ビールがよかかい、焼酎がよかかい?ワインもあるばい。魚は塩で焼くの
と醤油で煮るのとどっちがよかかい?風呂は熱かったら水で埋めなさい。それ
からタオルと着替えは……」。いつまでも親は親、子供は子供。母親の昔と変
わらぬ機関銃のような喋りを背に、親父の位牌に手を合わせた。
さぁ、明日は待ちに待った30年ぶりの同窓会だ。今夜はゆっくりと温泉にで
も浸かりながら、昔の友だちのことを思い出すことにしよう。
(ドキドキの再会は、次回です)
|
|