東映といえば、戦後の日本映画製作の中心的役割を担ってきた会社である。
特に、僕らの世代で有名なのは、鶴田浩二、高倉健、藤純子、菅原文太などが主役として登場する任侠ものの映画だ。
僕がはじめて東映と仕事面での関わりを持ち始めたのは、30歳になったばかりの頃だった。僕が勤めていた会社のセミナーに、東映の人事部長が参加してくださったのがきっかけだった。
人事部長のお名前は矢澤さん。口数が少なく一見恐そうにみえるものの、たまに見せる笑顔がとても優しく可愛い。まるで東映のヤクザ映画に出てくる組の親分みたいな雰囲気を持っていた。当時50歳を少し超えたくらいの年齢だったろうか。
そして何回かの営業訪問を経て、東映と正式なお取引を開始することになった。東映の社員採用時に使っていただくための、とあるツールを提供させてもらうことになったのだ。さほど大きな金額ではなかったが、採用においては大事なツールで、その後毎年採用シーズンになると、必ず注文をいただいていた。
1997年11月。最初の出会いから6年ほどが経過していた。僕は意を決して、矢澤さんに会いに行った。矢澤さんはこのとき常務取締役という、たいへん高い立場であった。
矢澤さんに会いに行った目的。それは、僕が設立しようとしていた会社(つまりパフのことです)への出資のお願いだった。以前のコラムでも書いたが、僕はこのとき連日のように知人・友人を訪ね歩き、出資者を募っていたのだ。
矢澤さんに、僕が会社を辞めて独立する旨を話した。新会社で実現しようとしていることを話した。そして、ぜひ矢澤さんにも株主のひとりになっていただきたいと、深く頭をさげてお願いした。
矢澤さんはひとこと。「クギサキさん、その会社は人のために役立つのかい?それから誰にも迷惑をかけたりしないかい?今の会社から人を引っこ抜いたり、険悪な関係になったりしないかい?」と聞いてきた。矢澤さんは「義」をとても重んじる方だったのだ。
僕は「も、もちろんです」と答えた。矢澤さんは「そうかい、じゃ、ちょっと待ってな」と言い残して、ぷいっと部屋を出て行ってしまった。
いったいどうしたんだろうと思って待つこと15分。矢澤さんは部屋に戻ってきて僕の前に再びどかっと腰を下ろした。
そして背広の内ポケットから「ほい、これ」といってパンパンに膨らんだ銀行の封筒を取り出して、テーブルのうえにどさっと置いた。
中を見ると、数十枚の札束が入っていた。僕はびっくりして「え…? い、いやあの、いま現金でもらっても困るんですけど……」と感謝の気持が沸き起こるより前に、いま目の前に積まれたお金の取り扱いに窮してしまったのだった。
それにしても出資のお願いにきたその日に、いきなり現金(しかもかなりの額の札束)をどさっと差し出すなんて。まさに東映の任侠モノの映画に出てきそうな光景だ。
無口で男気あふれる矢澤さん。僕にとっては親父さんというか「親分」みたいな人だ。
現在すでに東映の役員は退任され、お仕事も完全に引退されている。もう5年以上お会いできていないのだが、「親分」元気でいらっしゃるだろうか。
なんとかお元気でいらっしゃるうちに、パフを成長させて恩返しをしたいものだ。「株式配当金」を銀行の封筒にパンパンに詰めて、どさっとテーブルの上に置き、「あの時はありがとうございました」と、ひとことお礼を言いたいと思っている。
ということで、54番目の出会い。男気あふれる東映の元常務取締役、矢澤さんのお話しでした。
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