釘さんの100の出会い プロフィール
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  <第83話> 「インキュベーターの金澤さん」   2006/07/18  
 
『インキュベーター』という言葉をご存知だろうか。直訳すると、孵(ふ)化器とか培養器という意味だが、これが転じて、起業家の創業期を支援する機関や企業をインキュベーターと呼ぶようになった。

起業家という人種には、「会社を作りたい」という意志だけはあるものの、「ヒト、モノ、カネ」が揃っていない(そこまで頭が回らない)ことが殆どだ。

会社を作り、存続させていくためには、法律や会計や税務の専門知識をもった「ヒト」、事務所や設備などの「モノ」、資本金や運転資金などの「カネ」が必要不可欠なのだが、これらを個人で最初からひとりで全部まかなえる起業家など滅多にいない。

そこで登場してきたのがインキュベーターなのだ。アメリカでは、ずいぶん前からインキュベーターがいたのだが、日本では、その存在はほとんど知られていなかった。

会社を作ろうと思っていた僕ですら、「ある人」にお会いするときまで、聞いたこともなかった。

「ある人」とは、本日登場の金澤さん。まさに日本のインキュベーターのさきがけとして、尽力されていた方だった。

金澤さんを紹介してくださったのは、以前のコラムにも登場したオプトの鉢嶺社長だ。僕は、会社を設立する資金をなんとか工面しようと、鉢嶺さんと一緒に、金澤さんの事務所まで出かけていった。

金澤さんは当時50歳くらい。体格がよく(太っているわけではない)、声も太く(響くような声なのだ)、背筋がピっとしており、高そうなダブルのスーツがよく似合う、とてつもなく存在感のある紳士だった。

しかし、物腰はとても柔らかく、話す言葉もていねい極まりない。それがまた、この人を『ただものではない』と思わせてくれていた。

金澤さんは、自ら企業家として活躍していた方だった。20代にして会社を興し、その会社を上場企業にまで成長させた経験をもつ。しかし、日本の金融政策の方針転換によって、会社を整理(会社更生法を申請)せざるを得なくなってしまった。

その後、「今度は自分が表舞台に出るのではなく、若い起業家たちを支援する側にまわろう」と、私財を投げ打って、インキュベーター団体と、ベンチャーキャピタルを立ち上げたのだった。

1997年10月。僕は事務所で金澤さんにお会いするなり、自分が書いた紙切れ2枚の事業計画書を使って、「こんな会社を作りたいんです。ぜひ力になっていただきたいんです」という、荒唐無稽な話しをした。

金澤さんは「どのくらいの資金が必要なんですか?」と聞いてきた。僕は、ごくっと唾を飲み込み「ご、五百万円……」と答えた。

次の瞬間、金澤さんはニッコリ笑い、「わかりました。クギサキさん、頑張りましょう」と握手を求めてきた。

初めて会う、海のものとも山のものとも知れぬこの僕に、30分程度の事業説明(しかも紙切れ2枚の事業計画書)だけで、五百万円もの出資を決定してくださった金澤さん。その時はわからなかったが、あとになって冷静に考えると、すごいことだ。あり得ない話しだ。

金澤さんも後に、「いやー、しかし、よく私もあんな紙切れ2枚の事業計画に、出資の判断をしたものだと思いますよ。まー、クギサキさんの会社が将来成功したら、美談になるんでしょうね(笑)」と言っていたくらいだ。

以来、金澤さんはパフの社外役員を務めてくださっている。役員であると同時に大株主のひとりでもあるのだが、この8年間、僕がアドバイスを求めるとき以外は、何ひとつ口出しをされない。

年に1、2回、大きな案件を相談することがあるのだが、そのときも、「よろしいんじゃないですか。クギサキさんが正しいと思うことをおやりになるのが一番ですからね」とニッコリ笑って仰ってくださる。「懐が深い」とは、こういう人のことを言うのだろう。

ということで、53番目の出会い。パフ創業時のインキュベーターであり、現在もパフの社外役員を務めてくださっている金澤さんとのお話しでした。
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