タバちゃんは、インターネットの求人情報メディア『登龍門』を、多くの企業
に営業しまくった。
当時は今と違い、競合となるインターネットネットの求人情報メディア(求人
サイト)は何もなかった。インターネットの世界に限るなら、独占の状況だっ
た。
しかし……。決して営業は楽ではなかった。
なぜなら、「インターネット」を理解できる人がほとんどいなかったからだ。
「ウィンドウズ」が、まだ世の中に登場していない時代だ。「ヤフー」が登場
するのも、まだまだ先の話しだ。
そんな時代に「インターネットに求人情報を載せて人材を採用しましょう」と
言っても、すぐに理解してもらえるはずがない。商品の営業よりも、インター
ネットを理解してもらうための啓蒙活動が必要な時代だったのだ。
そんななかタバちゃんは、掲載してもらえる企業の数を着実に増やしていった。
いままで世の中になかった商品なので、やりがいもあったのだと思う。断られ
ても断られても、めげることなく、常に前向きに営業活動を継続していったの
だ。
そしてもうひとり。この営業戦線に、途中から加わった男がいた。名前を正留
(まさどめ)という。僕らは「トメさん」と呼んでいた。年齢は当時32歳。ト
メさんもまた、中途入社で入ってきた男だ。
タバちゃん25歳。トメさん32歳。僕が35歳。年齢はバラバラだったが、ネット
求人市場を開拓するために、日々共に仕事に取り組んでいた。
こう書くと、モーレツビジネスマンのように聞こえるが、実はまったくそのよ
うなことはなく、楽しく、面白おかしく、日々を過ごしていた。
夜9時を回って、そろそろ仕事に一区切りつきそうになると、誰からともなく、
お猪口(ちょこ)を口に持っていくジェスチャー。すると皆、ささっと仕事を
片付けて、駅前の飲み屋街にダッシュ。
我々がいつも通っていた飲み屋は、JR山手線五反田駅の傍にある『望波亭』
(ぼうはてい)という、10人も入れば満員になる小さな串焼き屋。気のいいマ
スターが経営する店で、いつも終電間際まで飲んでいた。
うっかり終電を過ぎてしまうと、今度は小さなスナックに通っていた。『ニン
ジン』という名前のスナックで、美人のママが経営していた。特に、トメさん
がここのママにぞっこんで、いつもわざと終電を逃していたような気がする。
ここで明け方まで飲んで始発で帰るという、ムチャクチャな毎日を過ごしてい
たのだが、これが我々の活力になっていたのは間違いない。
1995年から1997年までの3年間。僕は、タバちゃんやトメさんを中心とするメ
ンバーたちがいたおかげで、インターネットによる求人情報市場の開拓という
難しい仕事を、日々充実して行うことができた。
しかし、僕は1997年12月、彼らと別れることになる。パフを設立するためだっ
た。タバちゃんもトメさんも、僕が会社を辞めて独立することを、心からは許
してくれていなかったのではないかと思う。トメさんは、僕の送別会のときに、
「なんで僕を置いていくんですか!僕は悲しいですよ!」と、荒れていた。
そんなトメさんだったが、パフ設立後、たびたびナイショで会社に遊びに来て
くれていた。個人で、なけなしのお金を出して、株主になってくれたりもした。
が、トメさんは数年後、体を壊し、故郷の四国で療養生活を送ることになった。
そして、とても残念なことに、昨年、42歳の若さで他界してしまった。
タバちゃんと久々に連絡を取り合い再会したのは、実はトメさんが逝去したこ
とがきっかけだった。「久々に集まってトメさんを偲んで五反田で飲もう」と
いうことになったのだ。
タバちゃんは現在では、有名キャリア求人サイトを運営するE社の営業マネジ
ャーを務めている。かつて25歳のヤンチャな営業マンだったタバちゃんが、い
まや上場企業の立派な管理職である。
実は今年からタバちゃんにお願いして、パフのキャリア採用の情報をE社のサ
イトに掲載してもらうことになった。それまでは競合ということもあって、掲
載を断られていたのだが、タバちゃんの働きかけのおかげでOKとなったのだ。
そしてタバちゃんのおかげで、今年の夏、得がたい人材を採用することができ
た。
トメさんの突然の悲しい死が、タバちゃんとの再会の縁を結んでくれた。そし
てタバちゃんとの再会が、パフの将来を変えるであろうキャリア人材との縁を
結んでくれた。縁とは、本当に不思議なものだと、つくづく思う。
ということで、今回の出会い。通算66番目の出会いが「タバちゃん」。67
番目の出会いが「トメさん」。面白おかしく、ネット求人市場を開拓した同志
たちだ。
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