釘さんの100の出会い プロフィール
バックナンバー一覧へ
 
  <第99話> 「ネット求人市場を開拓した同志たち(前編)」   2006/11/13  
 
このコラムの71話から78話まで、「求人サイト『登龍門』で出会った人々」と 題して、8話連続で、僕がパフ設立直前まで過ごしていた会社での出会いを書 いた。

しかし、このコラムの中では「ネット求人」の草創期の市場開拓をともに戦っ てきた仲間のことを書いていなかった。最近このコラムを読み返していて、そ のことに気がついた。あらためて、数回の連載で書き留めておこうと思う。

・・・・・

『登龍門』という求人情報サイトを立ち上げたのは、1995年12月1日のこと。 立ち上げプロジェクトを正式に発足させたのは、そのわずか半年くらい前のこ と。まだ「インターネット」の正体が何者であるか、当事者である僕たちにも よく理解できていなかったころの話である。

リクルート、毎日コミュニケーションズ、日経就職ガイド、ダイヤモンドなど の大手就職情報会社は、まだどこもインターネットに参入していなかった。

僕がいたH社は当時、グループ会社(ソフトウェア会社)を含めても、60名ほ どの小さな所帯だった(一時は100名超の社員がいたのだが、バブルの崩壊で、 人員整理が行なわれていた)。

その小さな組織の中で、このプロジェクトに携わる人間も極わずか。僕はシス テムの企画や仕様づくりを行なう傍ら、サービス運営のための仕組みづくりを 急ピッチで進めていた。

でも、いくらシステムやサービスの仕組みを作っても、肝心の「求人情報」が なければ話にならない。情報を掲載してくれる求人企業の開拓も、システム作 りと同時平行で、急ピッチで進める必要があった。

それまでのH社の中心事業は、適性検査(企業人事が、入社時や配属時、昇進 昇格時に使用するテスト)と、人事情報システム(パソコンを使った簡便な社 員情報管理のためのデータベースシステム)の二つの事業だけだった。

客先は、企業の人事部ではあるのだけれど、「求人情報誌」ということになる と、その営業経験は、皆無に等しかった。

プロジェクト責任者の僕自身にしても、「求人情報誌」の営業は、はるか昔、 大学4年生のころにリクルートで1年間だけ経験していたのみ。なんとも心細 い状況であった。

しかしそんななか、恐れを知らずに最前線の営業をしまくっていた心強い営業 マンが一人いた。

名前は、田畑くんという。僕らの間では、「タバちゃん」という愛称で呼ばれ ていた。

タバちゃんは当時25歳。お酒とサッカーが大好きで、血の気が多く、口が悪く て喧嘩っ早く、深酒をした翌日には遅刻もしたりで、何度かクビを言い渡され そうになったこともある(会社から見れば)問題たっぷりの若手営業マンだっ た。

しかし、中途入社であるタバちゃんの前職は、就職情報誌の営業マン。当時全 盛を極めていた学生援護会(現インテリジェンス)が出版していた中途採用情 報誌『DODA』を企業の人事部に売りまくっていた男であり、このプロジェ クトで営業の任を担うには、ピッタリの男だった。

タバちゃんは、H社に入った直後から適性検査の営業を中心に行なっていたが、 検査は小難しい商材でもあり、いまひとつ不完全燃焼の様子だった。

ところが、今回のまったく新しいネットの求人媒体の営業は、彼をみるみるヤ ル気溢れる営業マンに変えていったのだった。
(次回につづく)
<< 前のコラムへ 次のコラムへ >>
 
バックナンバー一覧へ