2000年10月。パフ設立3年目の秋。前年より本格的な取引を開始した大日本インキの2001年春の採用活動も無事終了し、次年度(2002年春)に向けた動きを開始するタイミングだった。
ここで突然の変化が起きた。
前年より一緒に新卒採用に取り組んできた鶴田さんが、採用の担当をはずれることになったのだ。本来の担当である海外人事の仕事が多忙になり、そちらに専念することになってしまったのだ。
「せっかくこの1年間、試行錯誤でやってきて、来年の構想も膨らんできたところだったのに残念です」と鶴田さんは言っていたが、僕も同じ思いだった。
採用ホームページも、おもしろい企画がまとまったところで、「さあこれからだ!」というときだったのに……。
しかし、別れがあれば出会いもある。
ホームページのコンテンツとして企画した『内定者座談会』を、(当時月島にあった)パフの事務所で催したときだった。
鶴田さんはこの日が採用担当としては最後の仕事の日。嵯峨さんと鶴田さんのふたりがこの座談会に立ち会うことになっていたのだが、もうひとり、初顔合わせの人がいた。
「あ、どうもどうも。大日本インキ人事部の福井と申しますう」
文字にすると分からないだろうが、喋りのアクセントがモロ関西。福井さんは、生まれも育ちも大学も、それから大日本インキ入社後の最初の配属も、すべてが関西尽くしの人だったのだ。そりゃ、関西弁が抜けなくても無理がない。
年齢は、鶴田さんや嵯峨さんよりも数歳若い。僕の記憶が定かであれば、このころ第一子が誕生し、お父さんになったばかりだったと思う。
この日から福井さんが新卒者採用のメイン担当となった。嵯峨さんも福井さんの上長・先輩格としてコンビを組んでいたのだが、基本的にすべての事案に対して、福井さんが前面に立つことになった。
そして数か月後、パフ側でも変化が起きた。いままでは僕自身が大日本インキの(というよりもすべての顧客企業の)担当を務めてきたのだが、新しい担当をつけることになったのだった。
2001年4月。パフ自身が初めての新卒採用を行い、3名の新入社員が入社してきた。この3名にいきなり顧客企業を担当させることにしたのだ。当時の顧客数は約20社だったのだが、ほとんどの顧客を新入社員に任せた。ひとりあたり6~7社と少数だが、新人が持つには、十分すぎるほど重い顧客ばかりだった。
大日本インキを担当することになったのは、吉川安由(よしかわあゆ)。元気はあるもののチョンボも多い新入社員だった。
ここから「福井さん、吉川、ときどき嵯峨さん」という、大日本インキ&パフの新卒者採用のプロジェクト(21世紀体制と勝手に命名する)がスタートすることになる。
以来6年間(一昨年、嵯峨さんが堺工場に転勤になったり、昨年パフの新入社員が加わったりしているものの)、この体制は年を追うごとに堅牢なものとなり、現在に続いている。
もちろん途中、いくつもの危機やトラブルがあった。もはや取引停止か!?と思われることもあった。
しかし、嵯峨さんも福井さんもパフを見捨てることなく、否、一心同体の同志のごとく事に当たってくださった。
昨年の秋、福井さんの課長昇進を祝して一緒に食事をしたときのこと。「いまの僕があるんは、ほんまにパフさんのおかげなんです」と、しみじみと仰ってくださった。お客様にこんなことを仰っていただけるとは、まさに恐悦至極である。
15年前の鶴田さん、10年前の嵯峨さん、7年前の福井さん。この大日本インキの人事マンたちとの出会いは、ぼくにとってとても大きなものだった。そしてこの出会いは、パフの社員達にとってさらに大きなものとなって繋がっている。
以上、三週間に渡って書いてきた、かけがえのない70番目の出会いでした。
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