新卒一期生の採用活動を行ったのが西暦2000年。ニ期生は2001年。順当に行け
ば、三期生の採用は2002年ということになるのであるが、実は2002年の採用を
僕は見送っている。
2002年当時の僕は、新卒一期生と二期生(計8名)が毎日のように起こしてく
れるトラブルやクレームの尻拭いに明け暮れていた。
「このメチャクチャな状態で三期生が入ってきたら、パフは崩壊するかも。ま
ずはこの連中が成長して、後輩を受け入れられるようになるまで待つとしよう」
と判断したのだ。
そして2003年春。先輩達も多少の成長を見せてくれたこともあり、満を持して、
1年ぶりの採用活動を開始した。
パフの認知度もそれなりに向上しており、多くの応募者が会社説明会に訪れて
くれた。
しかし、人数は多くても、「これだ!」という学生にはなかなか巡り合えない
ものである。
その日も、「きょう集まってくれる学生はどうなんだろうなあ。あまり期待し
ないほうがいいのかなあ……」という、半ば諦めた気持ちで、僕は説明会の会
場に入った。
説明会の会場は、月島にあった当時のパフのセミナールーム。30名ほどのキャ
パシティの部屋なのだが、ほぼ満席の状態だった。
入室するなり、部屋の奥のほうから、オーラのようなものを感じた。見ると、
目をギラギラさせた、明らかに周囲の学生とはまったく違う雰囲気の女子学生
が座っていた。
形容するのが難しいのだが、ひとことで言うなら「野性味」というのだろうか。
他を押しのけてでも生き延びようとするエネルギー=生命力のようなものを感
じた。
この女子学生こそが、パフの新卒三期生である長崎美香(以降、ナガサキ)な
のであった。
ナガサキは案の定、スルスルスルと、僕との最終面接まで辿り着いた。最終面
接のときも、ナガサキは、説明会で会った時と同じ迫力を感じさせてくれた。
そして僕は、何の迷いもなくナガサキに内定を出した。
この年の内定者は、ナガサキ以外にも実は2名いた。が、その2名は、やむを
得ぬ理由から、入社直前にパフへの入社を取りやめる(つまり内定辞退)する
ことになった。
なのでナガサキは、たったひとりの新卒第三期生として入社することになった。
しかも先輩とは1年間のギャップもある。当時としては、歳の離れた末っ子と
いう感じだったかもしれない。
“末っ子”だからなのか、自由奔放で我がままなところが入社したばかりのナ
ガサキにはあった。
それは悪いことばかりではない。独創的な発想や発言は、多くの先輩社員たち
に刺激を与えていた。
その独創性をかって、僕は、アメリカ出張に際して、入社したばかりの彼女を
随伴員として任命した。
ナガサキがアメリカに行くということで、当時の社内のごく一部には、多少の
やっかみや反感みたいなものがあったと聞く。しかし僕は、そんなこと“どこ
吹く風”で、観光旅行みたいなノリでナガサキを連れ出したのだった。
ともあれ、「野次さん喜多さん」も顔負けのアメリカ珍道中が繰り広げられた
のだが、これを書き始めるとキリがないので、また別の機会に譲ることにしよ
う。
入社2年目のときには自ら手を挙げて、自分の後輩を採用すべく、新卒採用の
担当者になった。それから、(パフにとっては)未開の地であった大阪での
営業を志願し、みごと多くの企業との新規契約を成功させたのも、
彼女が入社2年目の夏のことであった。
現在のナガサキは、それまでの営業最前線の「戦闘員」から
後方支援の「秘密工作員」へと活躍の舞台を移し、
会社全体の営業パフォーマンスを向上させていくための、販売促進や
インバウンド施策の企画立案、営業ツールの改善・開発・作成などに
取り組んでいる。
また、『知恵子通信』という(営業の知恵を集めて紹介する)社内メルマガを
毎週配信してくれているのだが、これが抱腹絶倒の中身で、僕は毎週の配信を
楽しみに待つ密かなファンでもある。
なにしろ、(良くも悪くも)周囲に与える影響力の大きいナガサキ。これから
も、その類稀なる独創的な発想を存分に活かしながら、活躍してもらいたい。
ただし、“頑張り過ぎない”程度に……。
ということで89番目の出会い。新卒三期生のナガサキこと、長崎美香との出
会いでした
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