礼子ちゃんのおかげで自信を取り戻した僕は、以降の小学生時代を、とても楽しく過ごしていました。
時が過ぎ、中学校(湯布院中学校)に進学した僕は、入学式の初日に柔道部の門を叩きました。
この頃、テレビで「柔道一直線」(桜木健一主演、近藤正臣が足でピアノを弾いたことで有名)が流行っており、強くなって黒帯を締めたい!と単純に思ったのが入部のきっかけでした。
ブームだったこともあって、4月にはは新入部員が30名ほどいたのですが、3ヶ月後に残ったのは、わずか7名。
先輩に、容赦なく畳に投げつけられる毎日に、ほとんどの連中は逃げ出すように退部していきました。
僕もかなり辛くて辞めたいと思ったこともしばしばだったのですが、結構負けず嫌いで、そのままズルズルと続けることになりました。
「黒帯をいつかは締めたい!」という思いも、かなり強かったのでしょう。
結果的に中学3年の夏の大会まで柔道を続けることになり、3年生の夏には、昇段試験にも受かり、念願の黒帯(初段)を締めるまでになりました。(初段の免状と黒帯を先生から受け取ったときには、ムッチャクチャ嬉しかっ たです。)
今では、お腹も胸もぜい肉だらけでプヨプヨしていますが、当時は結構逞しかったもんです。
ところで、中学生ともなると、やはり高校進学を前提とした勉強にも力を入れざるを得ない時期。
我が湯布院中学校は、田舎の中学校でありながら、学業指導にも熱心な学校でした。(それが普通かな?)
僕は柔道漬けの毎日だったため、家で勉強や宿題をやることは殆どありませんでしたが、それでも、まー、授業中はちゃんと起きてたこともあって、成績はクラスで2番か3番、学年でも10番前後を常にキープしていたでしょうか。
自分では「我ながらよーがんばっちょる。こんくらいの成績じゃったら上出来じゃよ…」と思っていたのですが、学校の先生や母親は、そう思ってくれなかったようで、
「お前なー、どしち、もっと勉強せんのかのー。お前の兄ちゃんはのー、学年 で1番以外取ったことなかったんぞー!」
僕には5歳年上で、「中学校始まって以来の秀才」とまで言わしめた成績優秀な兄貴がいて、当時の中学校の学年主任や、数学や英語など主要科目の先生の多くが、兄を教えた人だったんですね。
そんな秀才の弟が中学校に入ってくるということで、相当に先生たちの期待は大きかったようです。
折悪しく?そんな兄が、「東大法学部」に受かってしまったものだから、余計その期待は膨らんでいきました。
「おい、お前の兄ちゃんは東大ぞ!お前もがんばって東大めざさんか!」と母親や一部教師たち。
「うるせー!俺は俺じゃ!兄貴なんかと比べるんじゃねー!何が東大じゃ!」
「お前らは、兄貴の東大入学だけで満足しちょりゃ、それでいいんじゃ!」
と、僕の心の叫び。
なぜか、学業の上では、かなり劣等感を抱いていた中学時代だったですねー。
普通なら、誉められてもおかしくない成績だったのに、おかしなものですね。
おそらく、この兄と比べられていた悔しさというのが、大学卒業後に、普通の社会人人生を選択しなかった僕の生き方に繋がっているような気がします。
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