1983年3月。リクルートの営業マンとして働き始めて、かれこれ2ヶ月近
くが経過していた。
しかし、あいかわらず、僕の営業成績は低迷していた。否、「低迷」ではない。
もっとわかりやすい成績だった。
「売上=ゼロ円」
つまり、まったく売れていなかったのだ。この間、すでにもらった給料は
(たぶん)40万円ほど。「給料ドロボー」の謗(そし)りを受けるのには、十分
な営業成績だったのだ。
「そうはいっても、まだ学生なんだし…」という言い訳や甘えは、もはや僕の
気持の中にはなかった。同じ立場の学生社員(A職と呼ばれていた)たちは、
キチンと売上を上げていたわけだし、当時のリクルートには、A職を差別・区
別するような文化がまったくなかったのだ。
当然、企業に営業するときも、「まだ自分が学生である」などということは決
して口には出さなかった。「入社何年目?」と聞かれたら「はい、まだ2年目
です」と平然とウソをついていた。
つまりは、働いて給料をもらっている限りは、正社員だろうが学生だろうが関
係なし。同じ責任を負った立場なのだ……ということを、至極当然のこととし
て捉えていた。
別に僕が特別立派だったわけではなく、それが当時のリクルート神田営業所に
おける、いわば「常識」だったのだ。
そんななかでの「売上=ゼロ円」である。とてつもなく辛かった。一日も早く
初受注が欲しかった。
・・・
その日は、1件のアポイント(企業への営業訪問の約束)も入っていなかった。
とはいえ、昼間の時間帯に事務所にいることは、営業マンにとって最大の恥じ。
僕は、あてもなく、テリトリーである神田の街を、営業車(自転車だけど)で
彷徨い歩いて(自転車を漕いで)いた。
気がつけば水道橋の駅前まで来ていた。
ふと看板が目に入った。「〇〇土木建築設計事務所」と書かれている。確か数
日まえに、アポの電話をして断られた会社だった。
他に行く会社もないし、いっちょ飛び込んでみるかな……。
僕は、自転車をその会社のビルの前に置き、ダメモトで「アポナシ訪問」を決行
することにしたのだった。
(久々の長編だ!次号につづく)
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