F社のプロジェクトが終了・解散すると同時に、出向元のM社の退職を決意した僕は、転職活動を始めることにした。
当時、僕は29歳。さんざん悩んだ末の退職の決意だった。F社で大企業の凄さを思い知った僕だったが、同時に大企業の傘の下で、組織に対して忠実に働き続けることは、自分の生き方に反するように思えてしょうがなかった。
転職情報誌をめくっていると、R社というパソコン向けのパッケージソフトを開発している会社の求人が目に止まった。
R社は、当時パソコンのソフト開発に携わる者のあいだでは有名なソフトウェア会社だった。『カード型データベース』の分野ではTOPシェアを握っていた。
社員数は100名程度で、小さすぎず大きすぎず、ちょうど良い規模の会社だった。
僕はR社の面接を受けることにした。最初は人事部長と話をしていたのだが、少しして社長が登場してきた。業界内では有名な社長だったので、僕は緊張していたのだが、話しをしてみると、とても気さくな方だったので拍子抜けした。
社長との面接では、学生時代、リクルートで就職情報誌の営業をやっていた話しで盛り上がっていた。
「実はねクギサキくん。数年前にH社といって、人事向けのサービスを行うための別会社を作ったんだけど、クギサキくん、その会社の立ち上げを手伝ってくれないかな?」
H社では、人事向けに、適性検査の診断サービスを提供していた。専任の社員は3名だけだったが、取引先は100社を超えており、大手企業にも食い込んでいた。それなりの優良企業(事業)ではあった。
だが、企業として自立していくためには、現状の適性検査の事業だけでは不十分で、社長としては新規の事業を立ち上げたいと思っていたのだ。
ソフトウェア会社の面接を受けに来たつもりだったのに、『人事向けの会社の立ち上げを手伝ってくれ』とは……。
少し面食らいはしたが、縁のようなものを感じ、ここの会社で働いてみてもいいかなと、(内定ももらっていないくせに)思った。
結局、それから数日後、正式に内定を受諾し、H社に転職することになった。
そして入社して起業独立するまでの7年間。僕は社長の期待に添う形で、いくつかの新しい商品やサービスや事業を生み出すことになる。その新しい商品やサービスを生み出す過程で、数多くの人たちに出会うことになる。
7年の歳月を過ごしたH社。このH社との出会いがなければ、今のパフは絶対に存在していない。いまさらながらH社との出会いの偉大さに気がつく。
ということで、41番目の出会いは、29歳の転職活動で偶然に出会ったH社でした。
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